MTGにおけるレア土地問題

JP【MTGアリーナ】初心者&無課金必見!! 今作るべきカードランキング (サンプルデッキあり)【MTG Arena/Magic The Gathering】

 動画に対する批判ではなく、MTGというゲームに対する感慨みたいなものを書きたいんであるけども。このレア土地に対する比重の重さがMTGというゲームの新規参入の難しさを作り上げていると思うんである。

 MTGには土地という概念があり、毎ターン1枚だけ土地が置ける。土地は5色のうちのいずれか1色1点のマナを生み出すことができ、ゲームが進む毎に使えるリソースが増えていくというのが基本設計である。

 で、土地の枚数はデッキ60枚に対して24枚が相場と言われている。ただ、コストの重いカードの多いデッキは26枚など多めに土地を積むし、逆に軽いカードばかりのデッキだと22枚など減らしたりもする。

 得てして起きるのが土地ばかり引く、あるいは、土地を全く引かない。土地事故と呼ばれるもので超ベテランでも初心者にあっさり負ける要因を作り上げている。初手は3枚程度の土地があることが望ましいが、そこから1枚も土地を引かずに10ターン続くということも確率上あるわけで、絶望的に何もできなくなるわけである。

 この土地事故の一種に色マナが出ないという問題があって、5色のうち1色だけしか使わないのなら問題はないのだが、2色以上使う場合は2種類の土地を使用することになる。すると手札には白のカードがあるのに白マナを生み出す平地カードを全く引かないということがあるんである。

 古いMTGでは多色デッキというのは「強力だが事故も起こりやすいため難しい」という設計だった。が、現代だと多色デッキがむしろ普通なのであって、ほとんどの環境では単色の方が珍しい構成ということになっている。

 こういう事情から現代では1枚の土地カードで2種類のマナを生み出す土地カードというものが普通に出ることになっており、この多色土地にもコモンとレアがある、というのが通例なんである。

 コモンとレアの大きな違いはタップインか否かである。タップインというのはMTGに固有の概念かもしれんが、ようするに出したターンに使えるか否かである。通常の土地は出した瞬間に使える。コモンの多色土地は2色生み出すペナルティとして出したターンは使えず、レアの多色土地だと強力な能力として出したターンに即使えるというものが多い。多いだけで、それだけでもないのだが。

 長々と書いたのだが、MTGではレアの土地を持っているか否かで勝率が大きく違ってくるんである。土地というのは地味な要素だが、上にも書いた通りベテランから初心者まで逃れられない問題である。

 俺の経験上、土地24枚のうちレア土地8枚を使える場合、4枚使える場合、使えない場合でそれぞれ数%くらいの差が出ると思うんである。華々しい活躍をするわけではないが、あらゆるデッキの勝率を底上げする。それが土地事故の問題である。

 MTGアリーナにはワイルドカードという好きなカードと交換できるシステムがあり、レアワイルドの用途としてレア土地が有力な候補だ、というのが動画の主旨であり、これはMTGプレイヤの多くが同意するところでもあるのだが。

 しかし、ベテランはそれでいいとして、全くの初心者がMTGというゲームを始めた時に、まず必要になるのがレア土地である、あるかないかで勝率が変わります、というのは結構難しい問題だと俺は思うんである。

 だって、土地は地味である。どのデッキにも使える便利なカードであり、入れるだけで確実に勝率を上げるカードでもある。逆に言うと、ベテランはみな使っているから、使っていない初心者だけが一方的に不利になるカードでもある。

 でも、地味なんである。せっかくゲームを始めたのだから派手な伝説カードだとか、パワーやタフネスがでかい、書いてあることの面白いカードを使いたいものだろう。土地なんて地味なカードに数少ないワイルドなんか使いたくない、というのが本音じゃなかろうか。

 カードゲームの新規参入はカード資産が少ないので、それだけでもかなり不利なんである。ただ、それは現行のカードだけを使って組むという工夫の余地がある不利でもあると思うんだが。レア土地というのは工夫の余地がかなり少ない、言い方を変えるとゲームとして克服する楽しさがない種類の不自由だと思うんである。

 TCGに置いて初心者にまず地味なレア土地を勧めないといけないというゲーム性は、どうにかならんもんかなと俺は思う。レア土地だけはワイルドだけでなく、ゲーム内通貨であるゴールドやリアル通貨での購入を許してもいいのではないか。

『復活のルルーシュ』

 『復活のルルーシュ』がタイムラインに流れてきて、なんぞやと思ったらabemaで放映されるらしい。俺も当時劇場へ見に行ったが、素晴らしい蛇足という作品であった。非常に完成度も高いのだが、地上波本編を超えるほどのものではない。むしろ旧来のコードギアスとの関係で言えば、ない方がいい類の作品なのだが。間違いなくファンが望んでいたものの一つであり、満足感もある。そういう作品である。

 ここからネタバレになるから、まだ見ていない人は戻る方がいいと思うんだが。

 『復活のルルーシュ』はタイトルの通りにルルーシュが復活し、CCと一緒に無限の時を生きる旅人として世界中を放浪するという結末に至る物語である。コードギアスでは過去の素晴らしい時を繰り返すために全精力を傾ける父親、恐怖で全てをコントロールして現在に縛り付ける兄に対峙。良い方に転ぶか、悪い方に転ぶかはわからないが、可能性のある未来へと進みたいというルルーシュが勝利するという作品になっている。

 『復活のルルーシュ』では無限に同じ時を繰り返すことで何度でも都合の良い正解が得られるまでやり直しを繰り返す、というキャラがボスとして登場する。これはようするに、無制限の未来を望んだルルーシュに対して、より良い未来だけをつかみ取れる人物が現れた時、それはどう扱われるべきか、という命題なんだと思うが。

 俺の理解力の範囲だが、ここには明確な返答が描かれていない。あくまで敵同士として対峙し、覇権争いの一環として戦うため、どちらの考え方がより正しいのか、という答えが提示されない。何度でも行える選択肢などまやかしだ、と言ってしまえばそれまでだが。それは思想のぶつかり合いとして納得のいく答えではない。

 また自らの覇道のために手を血に染めたルルーシュ大望を成し遂げた後、自身の責任を取るために自裁するというストーリーラインは悲劇的ではあるが、物語として美しく、十二分に納得のいく話だった。

 これに比べると、ギアスの力で生き延びてしまい、権力からも逃れ、流浪の旅へ進むルルーシュというのはしまりが悪い。一ファンとして感情的に嬉しいと思うのも確かだが、美しい終幕に比べると蛇足感が否めない。

 ただ、映像やストーリー自体はきちんとしたコードギアスの続編として成り立っており、飽きさせず面白いのも確かなんである。「公式の作ったifのラジオドラマ」みたいな作品である、と言えばわかる人にはわかるであろう。

 見て損のない出来栄えだとは思うので、思い入れの薄い人は見た方がいい。逆に、地上波を深く愛している人は気持ちを切り替えるか、なかったことにする方が妥当だろうと思う。

アバターの可能性

中田敦彦の失敗、アメリカザリガニ、吉田尚記、タイムマシーン3号らの挑戦から考えるアバターの可能性

 結論がよくわからない文章だが。おそらく、ここに紹介されている芸能人もvtuberもほとんど俺が知らないために、例示が例示として機能しなかったからなんだろう。俺はほとんどホロライブしか見ないし、芸能人にも詳しくない。ただ、アバターにしかできない表現方法がある、というのは希望を抱きすぎだろう。新しい表現であることが即ちそこにしかない表現であるというわけではない。ジャンケンのグーチョキパーをめちゃくちゃかっこよく表現したところで、それは新しいジャンケンではあってもジャンケンには違いない。

 個人的な感触で言えば、俺にとってアバターだろうと顔出しの人間だろうと受け取り方の違いはほとんどない。vtuberの中にはロールプレイに気を付けている人もいるし、それはそれでえらいとは思うのだが。俺が見ているのは結局のところ、その人自身の性格や個性、声音である。作業用として声だけ聞いていることが多いせいもあるだろう。

 そういう意味では、俺はホロライブがアバターの事務所ではなく顔出しの事務所でも大差なくハマっていたように思う。以前にも書いた通り、俺にとってのホロライブは日常系アニメであり、ストレスフリーにわちゃわちゃを楽しめればいいのであって、一部界隈に分かりやすく書くなら毎日更新される洲崎西みたいなもんなんである。

 俺からすると顔出しで仕事をしてきた人がアバターを使用する意義や利点は思い浮かばない。検索ワードで引っかかるようになったのに改名するようなもので、マネタイズに重要な自身の知名度を捨てるようなイメージがある。

 ただ、顔を知られていない人やこれから活動を始める人がアバターを使用することには一定のメリットはあると思う。例えば、声優は声こそ知られているが、顔はあまり知られていない。イメージに合わせたアバターを使用する意味はありそうである。デジタルタトゥーの話にあるように顔出しはリスクも高いため、これから活動を始める人は最初からアバターにした方が安全だろう。

 しかし、アバターにも当然リスクはあってvtuber界隈では事務所を換える際に転生を行うのが常になっているが、アバターのデザインや使用権を事務所側が抑えているためにファンを連れたままの事務所変更が不可能になっている。

 個人勢ならそのリスク自体は回避できるが、デザインそのものを買い上げたり、イラストレーターとの仲を維持しないと新衣装などが作れなかったり、初期費用が膨大だったり、と問題もある。

 結論として、顔出しとアバターで活動に大きな差が出ない程度の時代にはなったが、一長一短である。アバターはリスク回避の機能が高いけれど、コストも高いため最初からそれを選ぶのにはハードルがある。という感じである。

容姿ネタは倫理的にまずいという以前に、そもそも不快感しかない

「ブスを無駄にするな」ぼる塾・あんりが吉本養成所で教えられたコト お笑いライター・鈴木旭が語る芸人の“落とし穴”

 この記事は大衆の価値観は不変であるが、見せ方がへたくそなので不快に感じる人が増えた。攻撃的なものが強調されると倫理観に訴えかけてしまい、容姿ネタが笑いのエッセンスにならなくなってしまうのだ、と言いたいのだと思うが。俺が考えるに、そもそも大衆の価値観は不変ではなく、容姿ネタが笑いどころになる人間が減ってきたんだと思うんである。

 他人の事情は知らんけども。少なくとも俺の場合、社畜経験が強く感性に影響を及ぼしている。例えば、松本人志渡辺直美がブタ呼ばわりするシーンなどを見ても、「ああ、上司は部下にいくらひどいことを言っても許されるのだな」と世の無常を感じてしまう。辛い体験がフラッシュバックするので笑って見ていられるわけがないんである。

 テレビ業界の人は容姿ネタ批判を倫理観問題だと思って「お笑いは多様だから差別的な表現があってもいいじゃないか」と釈明したいんだと思うんだが。俺のような人類からすると「テレビで不快な思いをしたくないから、Youtubeで猫動画でも見ます」「見ないんで好きにやってください」ということになるんである。

 商業コンテンツである以上、「昔の人はこれで笑ってたもん」「俺が面白いと思えるお笑いで笑ってくれよ」ではなく、「今の大衆が笑えるポイントはどこなんだろう」と考えて欲しいもんである。

超優秀な開発者なのに評価されないのがザボエラだと思うんである

マンガ『ダイの大冒険』の不人気キャラ、ザボエラさんのセリフが大人になると刺さる「強者とは強い奴のことでは無い!」

 俺もザボエラさんは嫌いではない。確かに、嫌みなじいさんで、非人道的にも思えるから、自分の上司として働きたくはない。だが、開発者としても戦術家としても優秀であり、周囲に蔑まれるいわれのない人物だとも思うんである。

 例えば、超魔生物などは非常に優秀な防具である。地上とは比べ物にならないくらいの戦士がひしめく魔界においても、指折りの剣士だったロン・ベルクの両腕を犠牲にして、やっと打ち倒せるレベルの防具である。地上と魔界では生物の強度が違うらしいのに、地上の生物をベースにして魔界の強度を上回っているのである。これは並大抵の技術ではない。

 しかも、すごいのが技術だということである。ロン・ベルクの武具防具は優秀だが、彼にしか作れない。だが、ザボエラの超魔生物はおそらくザボエラ以外によっても生み出せる。量産することも可能だろうから、魔王軍の戦力強化にこれ以上ないほど役に立つし、世界征服を果たした後に統治する段階でも利用価値が高い。全世界に一定の戦力を配備することができるからである。

 また、一度はアバンに敗れる程度の肉体強度しか持たなかったハドラーを強化し、たとえ一時でもダイと対等に戦えるまでにしたのもザボエラの功績である。もちろんハドラーの精神力も大きいが、これも再現可能な技術なのだから、ダイと同レベルの戦士を量産できるというのはめちゃくちゃにすごい。

 俺が思うに、こういう後方支援の開発職に対して、おそらく否定的な風潮がある魔王軍にむしろ問題がある。自身の肉体を持たないミストバーンは自らの肉体で持って格闘を演じる戦士たちを尊重する傾向にある。一応ミストバーンは軍団長の一人ということになってはいるが、実質はNo2の立ち位置であり、軍団全体にその傾向は伝わっていたろう。

 そういう中では「自分は傷一つ負わずに、相手を一方的に嬲りたい」という超魔生物などの開発は評価されなかったろうし、はっきり言って評価されない仕事ほどむなしいものはない。ポップには「最低だ」と罵られているが、超魔生物のコンセプトは防具の極致であって、傷つくのを厭わないなら裸で戦えばいいのである。その程度の理解力もない軍団で仕事を続けていくのはかなりきつかったろう。

 しかも、ミストバーンは誰もが戦場で果てていくことに感銘を受けてしまって、最終的には開発職であるザボエラに前線行きを命じている。これはアインシュタインに一兵士として戦ってこいと命じるのと同じくらいに馬鹿らしい行為だが、まかり通ってしまうのが魔王軍なのである。

 超優秀な技術者を社内政治に腐心させてしまうのは本来的な技術を評価しなかった結果である。開発職であるザボエラが脳筋になっても大して戦えるわけでもないのだから、どこに乗り換えるかを考えるしかない。実にかわいそうな男だと思うんである。

サクラ革命終了に寄せて

 サクラ革命が終わるらしいんである。俺は例のvtuber、宝鐘マリン氏のファンであるから、それにつられてプレイしていたのだが。しかし、申し訳ないのだけれど、二カ月ほどで脱落してしまった。

 当時はご当地ブス集めなどとひどい言われようをしていたが、俺はそれには異議を唱えない。俺は太眉の女の子が好きなので、主人公のデザインは好きだった。ゼルダのヒロインも好きである。批判の対象になっている量子ドレスについても、原作であるサクラ大戦を全く知らないからこそ、まるで違和感を覚えなかった。ついでに3Dモデルも手抜きだと言われていたが。確かに、この時代の3Dとして手抜きであることは否めないが、ゲームの中で使われている分には特に問題とは感じなかった。

 これは俺が長年ジャンプを読んでいるからこそ思うのかもしれんが、画質のクオリティというのは無暗に上げればいいというものではないんである。めちゃくちゃに絵がきれいだと、それ以外のしょぼさが目立ってしまう。お話がぼやぼやである場合、絵も同じくらいに汚い方がむしろ読める。サクラ革命も画面レベルでの質は確かに高くなかったが、最低というわけでもなく、その範囲内で戦うことは十分にできるレベルだったと思うんである。

 じゃあ、なんで二カ月で脱落したんだよ、という話になるんであるけども。やることがなかったからである。ゲームなのにやることがない。これが個人的には致命的な問題だったと思うんである。

 ストーリーは段階的に開放されていくから、行くところまで行くとやることがなくなる。キャラを育成するということになるが、高難度クエストは本当に高難度過ぎて進めることができない。服を買いに行く服がないという笑い話があるけれど、キャラ育成クエストを進めるためのキャラがいないと終わるんである。

 じゃあ、強いキャラとは何かというと、数十人いる中での二人か三人である。相性を無視できる強キャラと回復、この二人を引けないと、つまり、育成クエストは実質進められない。強化アイテムが手に入らないんである。

 これでストーリークエストの難易度も高いのであれば、課金してキャラを手に入れる、という導線もかろうじてあるのかもしれんが。良心的なことにストーリーの難易度自体は低いため、無課金でもなんら苦労せずに終えることができる。

 無課金でもストーリーは問題なく進められるために課金するに至らないが、人権キャラを持っていないとやることがなくなる。これが俺にとってのサクラ革命だった。ストーリーが解放されて一日でクリアし、残りの日数はなんとなく低難度クエストを周回するが、そこで得た強化アイテムは何にも使えない。そういう感じである。

 俺はサクラ革命を悪く言うつもりはないんだが。しかし、やることがないゲームをやる理由もないわけで、自然とお別れしてしまった。みんな同じだと思うんである。別段、サクラ革命に思い入れも悪意もないのだけど、同じくらい関心を持てなかったために、自然と消滅する。いわば小学校の友達が中学に上がると自然に会わなくなる、というような。ごく自然にみなが離れていった結果として、自然解散したんではないか。

車を走らせる時は全ての鍵をしめるべし

「後輩のストーリーでめちゃくちゃ笑ってる」突然、知らないお婆ちゃんが助手席に?優しすぎる後輩さんにほんわか

 ぼけたばあさんが乗ってくるくらいなら、まだしも笑える話なのであって。迷惑ではあるが、自分が主導権を握って、どうとでも差配できる。これは実にありがたい事態である。不幸中の幸いというトラブルである。ばあさんの家族が困るだろ、などと書いている人がいるけれど、それは全くその通りだが、迷惑をかけられているのはこちらなのだから、知ったことではない。

 世の中には全く正気で、ぼけてもおらず、堂々たる判断で勝手に車に乗り込んでくる人間がいる。本当にいる。歩いて駅まで行くつもりだったけど、だんだん歩いていて疲れてしまったから乗せていけ。タクシーはお金がかかるから嫌だ、バスなど待ちたくない。あんたは車に乗っているんだから、ちょっと駅まで乗せていくくらい簡単な話だろう。こう来る。

 非常に困ったことに、車には乗り込んできた人間を排除する手段がない。運転を邪魔することは容易なのに、むりやり追い出す機能がついていないんである。誰がやるか、ぼけなす、あほんだら、などと暴言をはいてみても、相手が臆病なら出て行ってくれるが。当たり前だが、その程度でひるむ人間が勝手に他人の車に乗り込んでくるわけがない。

 自分は自分で目的地があるわけだし、ばばあを乗せたまま動かしたくもないのだが、道路の真ん中で止まるわけにもいかない。警察を呼んでいる時間もないし、口論していても拉致があかない。周囲からクラクションなど鳴らされれば走るしかなく、駅まで着いても金も払わずに悪態ついて出ていくということがあるわけである。あほなのか。

 これは、しかし、俺がでかい男だからこれくらいで済むのであって、女性であったらもっと悲惨な目に遭うかもしれない。運転手よりも助手席の方が圧倒的に立場は上だから、どうにもならない。この人が男性か女性か俺は知らんけども。非常に大変だったろうと俺は思う。

 みな、車に乗る時は絶対に全ての鍵をきっちりかけて走る方がいい。路上は何が起きるかわからない。教習所の教官に「だろう」運転はだめだ、「かもしれない」運転で走れ、などと言われたが。実際、「どこぞのばばあがいきなり乗り込んできて、タクシー代わりに使われるかもしれない」などと想定して走る人間はおらん。ぜひとも、その「かもしれない」を想定して走るべきだ。あんなに腹立たしいことは人生でもそうはない。