創作物の勝手な翻訳は気持ちが悪い

[漫画bankと同様に海外で流行ってしまっている漫画をスキャンし翻訳したものを公開している外国人の言い分がこちら「俺達にも倫理観はある」]https://togetter.com/li/1798272

 俺が思うに、この人も対話した外人も創作をする人間ではないんだろう。「翻訳は実質的に創作だ」と書いている。確かに、俺も翻訳は創作だと思うが、この人には創作者としての見識や経験はないんだと思う。創作行為をしていても自身で創作者として活動していなければ、創作者としての見識は生まれようがない。

 創作とは何か。自己表現である。自己表現というと仰々しいが。「おはよう」とか「こんにちは」というのも自己表現である。美味しいご飯を食べて「美味しかったね、また来ようね」というのも自己表現だし、急な雨に降られて「悲しいね、カサを持ってくればよかったね」というのも自己表現である。

 こういった細々とした感情や情報は全て自己表現だが、特に自身の伝えたいものをひとかたまりにしたものを創作物と呼んだりもする。一連の自己表現を順序よくまとめることで、自分の考えをより精密に伝えようという意思である。

 人間の意思を読み取るということは創作物というのは作者の自己紹介の一冊であると言える。この人は普段こんなことを考えて生きているのだ。こんな食べ物を好んでいて、こういった考え方をする人なのだ、ということが自ずと現れる。もちろん一粒ずつを取り上げて、その全てが作者の一部分であるというのは無理があるけれど。本質的に創作物とは作者の人柄を表すものである。

 創作物が自己紹介であるとして、だからどうしたのか、というと、創作物の制作者は極力誤解をされたくないと思うもんなんである。これは非常に難しいし、無理があるのだが、可能であるならば自分の考えを正確に反映し、正確に読み取って欲しいと願う。何故ならば、創作物が誤解されるということは「自分が考えていないことを、自分が考えていることのように受け取られる」からである。

 この人は「原文の意図を伝えられるように、実質的に創作の域まで踏み込んで翻訳をしている」と書いているが。これは俺自身の認識で言えば、ぞっとするようなおぞましい話である。自分の創作物であるにも関わらず、赤の他人が勝手に内容を変えており、しかもクレジットはあくまでも自分の名前なんである。俺が言ってもいないことを言ったことにされて責任だけ取らせられる。これほど不気味で気持ちの悪いことはない。

 これが商業作品であれば、話は変わる。商業作家は自己の創作から利益を生み出す義務がある。権利ではなく、義務である。例えば、講談社から本を出していたら、会社が海外版を発行しようといってもおいそれと反対はできない。作家の育成にも連載にも資本を投入してくれているのだから、そこから利益を生み出す権利もまた出版社にはあるからである。

 ただし、商業作品が翻訳される際にはきちんとクレジットがなされる。作者はこの人だが、翻訳を実行させたのは講談社で、翻訳家はこの人である、と責任の所在が示される。何かあれば翻訳家と出版社が責任を受け持ってくれるから、作家本人の精神的負担はぐっと減る。

 全く創作しない人にわかるように言うと、「金ももらわずに翻訳してやってるんだから、感謝しろ」というのは「タダで部屋の掃除してやったから喜べ」とか「かわいい犬だから散歩させてあげたよ」とか見知らぬ人間に言われるのと同じなんである。心が広けりゃ喜ぶ人もいるかもしれんが、たいていの人は「気持ちが悪い」と思うだろう。

『ジョジョリオン』とは何だったのか

 『ジョジョリオン』が完結した。楽しい日々だった。また次のジョジョに期待している。

これまでのジョジョ

 俺にとって『ジョジョリオン』はわからないジョジョだった。これまでのジョジョも多かれ少なかれわからないところはあった。ただ、大筋の物語をわかることはできていた。『ジョジョリオン』は初めて大筋のわからないジョジョだった。

 何がわからなかったのか、と考えてみると、終着点が見通せないために読み手として気持ちが定まらなかったのだと思う。ジョジョ1部は冒頭から読むと目標が定まらず、ストーリーが展開するにつれ、吸血鬼たらんとするディオと対峙するという物語に結実していく。

 2部も古代の生物が発掘され、これを打倒していく物語に展開していくが、冒頭でストレイツォと戦うなど枝葉の部分も多い。3部に至って冒頭で宿敵ディオを登場させ、これを消滅させる長くて短い旅を行うというストーリーラインが展開されるようになった。1部から3部まででジョジョ少年マンガとしての「わかりやすさ」を手に入れたのだと思う。

 では、4部以降はどうかと言えば、この「わかりやすさ」を放棄している。移動し続けた3部の対比として1つの町に留まるし、冒頭で明確な目標だったディオが明示されたのとは違って町に潜む得体のしれない恐怖が暗示される。3部でわかりやすい少年マンガの路線を確立したからこそ、その逆の作品を作ろうとしたように思える。

 俺個人が一番好きなジョジョは2部だが。おそらく、世間で人気のあるジョジョは3部あるいは4部だろう。わかりやすい作品とわかりづらい作品が同じように愛されているのが、ジョジョというマンガの個性なのだと思う。

 5部は初めて主人公の目標と物語の終着点に乖離のあった作品だと思う。ジョルノの目標はマフィアのボスになることで、終着点はボスを打倒することに至ったが、これは過程や結論、手段と目的といった関係性ではなかった。ボスを目指していたジョルノが、たまたまボスを倒すことになり、偶然にも目的を達成したという形だった。

 「運命の奴隷」のシーケンスでブチャラティが主役になったのは5部にストーリーをもたらしたのがジョルノではなく、ブチャラティだったからだと思う。チームで最も強い動機を持っていたのはブチャラティで、彼が選択した結果がボスの打倒とジョルノのボスへの就任だった。5部は主人公が物語の中心にならなかった、初めてのジョジョだった。ストーリーの主軸を主人公から切り離したのが、5部だったのだと思う。

 この関係性を推し進めたのが6部だった。無実の罪で投獄されたジョリーンは刑務所からの脱出を画策するが、対する神父は世界の救済を目論んでいる。お互いの価値観も目標もずれていて、ニアミスの交通事故の果てに結果的に対立することに至るという関係性の薄さを俺は感じた。そして物語の結末を決めたのはジョリーンでも承太郎でもなく、ジョジョの血族とは全く関係のなかった、エンポリオだった。

 ジョリーンと神父は確かに対立し、殺し合ったが、そこに強い動機や因縁があったとも言い難い。精神面ではディオ、因縁で言えばウェザー・リポートの方が神父と深いつながりを持っている。ジョリーンはたまたま居合わせた他人の一人だ。流れゆく状況を眺める、因縁と偶然の行きつく先を追いかけるような作品だった。6部に至って、ジョースターの血族はジョジョの世界の主役から降りた。6部には主人公という主人公が実は存在しない。主人公という主軸もなくなったのが6部だったのだと思う。

 ジョジョというのは3部において明確なわかりやすさを手に入れた後で、そこから1つずつわかりやすさを解体していった作品だったと今は思う。4部で物語の最終地点を提示することを止め、5部で主人公と物語の一体感を止め、6部で主人公が主人公であることを止めている。

 では、7部はどうだったのだろう。SBRは当初ジョジョ7部とは言われていなかった。おそらく、作者も設定上のつながりはあるものの、連載当初にジョジョ7部とするつもりはなかったのではないか。6部までにジョジョというマンガは十分に解体されていたから、同じ世界同じ設定を持っていても、それはもう既存のジョジョという作品ではなかった。

 7部の物語は群像劇として始まり、1部のリブートのような形で決着をつける。それはSBRジョジョ7部になっいく過程のようにも思える。多数の参加者の中からジャイロとジョニィへと焦点が移る過程は、6部で解体された主人公の主人公性が再び獲得されていくようにも見える。ジョニィが自身の体を治すために裏の殺し合いに身を投じていく姿は、物語の傍観者になっていた主人公が再び物語の中心に収まっていく過程のように見える。4部から6部までに解体されていった物語の構成要素を、7部で再び組みなおしているように思えた。

ジョジョとは

 結末から思い返すと、『ジョジョリオン』とは「何がジョジョなのか」という再定義の物語だったのではないかと俺は思う。ジョジョは6部の終わりの時点で、それまでのジョジョであることを止めている。新しい宇宙に移ったからという意味合いもあるが、それ以前に物語の中心におらず、主人公であることも止めている。物語世界における特別性を、ジョジョ自身が持たなくなっている。

 7部のように同じものを語り直すことでジョジョジョジョであることを取り戻すことはできる。ただし、それはジョジョジョジョである必然性とは関係がない。仮に主人公を別の何者かに置き換えても、それはマンガとして成立する。ジョジョの血統ならジョジョになり、違う血統ならジョジョでなくなるのか。そうだとすれば、ジョジョとは特別性を指す意味であり、誰であろうと主人公のポジションにあるものは逆説的にジョジョであるということになる。そういう問題ではないはずだ。

 血統でも物語性でも主人公性でもない、ジョジョというものは何か。これが『ジョジョリオン』のテーマだったのではないかと俺には思える。

 『ジョジョリオン』の主人公には記憶がない。ある二人の人物の合成であることが判明するけれど、結末から俯瞰して見ると特殊な生い立ちが物語に与える影響は驚くほど少ない。全くのゼロと言ってもいい。誰でもない誰か、というのが主人公に与えられた明確な役割だった。

 『ジョジョリオン』にはストーリーもない。絶えず不思議な事件や様々な敵が出てくるし、腰の落ち着かない展開が続くものの、全体を通した意味のあるストーリーというものを俺は見出せなかった。言うなれば出来事が延々と続いているのみで、日常の活写であると言っていい。たまたま戦っているのは、推理ドラマで毎回殺人事件が起きるのと同じく、物語上の必然性というより作劇上の必要性だから、という以上の意味合いはないと思われる。

 全てを終えてみると、『ジョジョリオン』というのは何者でもない男が一定の時間を過ごした日常の記録なのだと俺には思える。『警察24時』というドキュメンタリーがあるけれど、『ジョジョリオン』はジョジョの主人公になった男の日常に密着しただけのマンガだったのだと思うのである。ジョジョの主人公に抜擢して、展開を与えていくことで、それはジョジョたり得るのか。これが『ジョジョリオン』というマンガだった。

わからなかった『ジョジョリオン

 『ジョジョリオン』はわからないマンガだった。単行本を順番に読んでいる時、俺はずっと『ジョジョリオン』を理解できなかった。今何が起きているのか、はわかるのだが。この物語がどこへ行きつくのか。何を目的にしているのか。どうなったら終わるのか。物語の羅針盤とでもいうものを理解できなかったからだ。

 路上で突然踊り出す人間を見た時に、踊りの良し悪しを品評することはできても、そのこと自体を理解できる人はいないだろう。カメラを探したり、何かの宣伝を疑ったり、そこに至る背景を俺は気にしてしまう。これは一体何なのか、を考えてしまって、理解ができないという気持ちを強く持ってしまう。

 では、『ジョジョリオン』はつまらないマンガだったろうか。それは違う。俺はずっと『ジョジョリオン』が好きだった。ずっとわからないが、それでも好きだった。面白いというのも少し違う。不可解な印象をぬぐえないために、これを純然と楽しむことができていなかった。だが、好きであるという気持ちも正しく事実だった。

 常秀と悪友のような関係に至る過程も、岩人間のギミック、カツアゲロードの場所に宿る不思議な力の設定、フルーツの奪い合いという字面にしても、ストーリーやキャラや設定に至るまで、好きな要素が様々に転がっている。こういった面白い要素を見るたびに、俺はずっとわくわくしてきた。

 『ジョジョリオン』とは何か。ジョジョとは何だったのか。最終巻を読んで、俺はようやく『ジョジョリオン』を理解することができた。俺にとってのジョジョがわかった。ジョジョというのは荒木飛呂彦の一連のシリーズを指す言葉である、と俺は思っていた。6部までは事実そうだった。7部以降は違う。少なくとも俺にとってジョジョというのは物語のシリーズではなく、荒木飛呂彦の作家性そのものだ。

 だから、ジョースターの血統やキャラクターの連続性、ストーリーのわかりやすさやわかりにくさ、主人公やジョジョが物語の主軸に絡んでくるか否かというのは、もはやジョジョであるということとは全く無関係のことになっている。

 これは荒木飛呂彦ジョジョだけを書いてきたから、有名作品の個性を作家に引き写して考えるようになってしまう。誤謬や誤認の類であるのかもしれないが。単純に、誤解というだけの問題ではないのだと俺は思う。

 そうやって考えるようになってしまった読者がいるのは、ジョジョが様々な挑戦をしてきたからでもあるのだ。ここまで振り返ってみてきたように、30年以上もかけて同じシリーズと銘打ってきながら、その中で主人公と物語を分離したり、主人公の枠組みを作中で解体したりする作品は他にはないのではないか。

 例えば、高橋留美子の創作はるーみっくわーるどと呼ばれたりするが、その中で『めぞん一刻』と『らんま1/2』と『犬夜叉』にはそれぞれ別の枠というものがある。『めぞん一刻』で許されることでも、『らんま1/2』では許されないことというのがある。1つずつの作品の中に超えてはいけないラインというものがあるから、それぞれの作品は別個のものとして受け取られるし、1個の作品を取り出して作家性そのものと結び付けたりもしない。

 ジョジョは違う。初期連載やいくつかの短編も発表しているが、荒木飛呂彦は基本的にジョジョ一本で連載を続けている。同時に、そのジョジョが部ごとに物語性を異にしている。どころか、1つの部の中でも大幅な変化を続けていくことがある。1つの作品の枠を超えないように創作するのではなく、作品の枠そのものを部を超えて、時には部の中ですら拡張していった結果、作家性の最大限のところにジョジョが行きついたのだと俺は思う。

 例えるなら、違う色の風船をいくつも膨らませていくのが他の作家であり、1つの風船をめいっぱい膨らませて部屋と同じ大きさにしたのが荒木飛呂彦という認識だ。だから、たまに異なるアプローチを行おうとしても、既に同じ場所にジョジョという風船があるために、新しい作品ではなく新しいジョジョであるという認識になってしまう。

 『ジョジョリオン』とはなんだったのか。それは何を書こうとも何が発表されようと、それはジョジョになるという祝福と呪いの証明だったのだと俺は思う。世間がそれを求めるという以上に、荒木飛呂彦自身が表現の幅をジョジョとして行ってきた結果として、そうなってしまった。何を書こうとしてもジョジョとみなされることは呪いなのではないかと思う。

 一方で、何を書こうともジョジョとみなされるということはどれだけ過去のジョジョとかけ離れていても、血統もストーリー性も主人公性をこれまでのジョジョから放棄しても、ジョジョになりうるということである。それは『ジョジョリオン』によって証明された。だから、実質的に制約のない作品が作れるという祝福でもある。

 たとえ、路上を行く学生の1日を活写するだけの作品であっても、それはもはやジョジョだとみなされるし、ファンの多くはそれを楽しむのだろう。いわばファンがジョジョに抱く宗教性が証明された作品、それが『ジョジョリオン』だったのだと俺は思う。

アバターの可能性

中田敦彦の失敗、アメリカザリガニ、吉田尚記、タイムマシーン3号らの挑戦から考えるアバターの可能性

 結論がよくわからない文章だが。おそらく、ここに紹介されている芸能人もvtuberもほとんど俺が知らないために、例示が例示として機能しなかったからなんだろう。俺はほとんどホロライブしか見ないし、芸能人にも詳しくない。ただ、アバターにしかできない表現方法がある、というのは希望を抱きすぎだろう。新しい表現であることが即ちそこにしかない表現であるというわけではない。ジャンケンのグーチョキパーをめちゃくちゃかっこよく表現したところで、それは新しいジャンケンではあってもジャンケンには違いない。

 個人的な感触で言えば、俺にとってアバターだろうと顔出しの人間だろうと受け取り方の違いはほとんどない。vtuberの中にはロールプレイに気を付けている人もいるし、それはそれでえらいとは思うのだが。俺が見ているのは結局のところ、その人自身の性格や個性、声音である。作業用として声だけ聞いていることが多いせいもあるだろう。

 そういう意味では、俺はホロライブがアバターの事務所ではなく顔出しの事務所でも大差なくハマっていたように思う。以前にも書いた通り、俺にとってのホロライブは日常系アニメであり、ストレスフリーにわちゃわちゃを楽しめればいいのであって、一部界隈に分かりやすく書くなら毎日更新される洲崎西みたいなもんなんである。

 俺からすると顔出しで仕事をしてきた人がアバターを使用する意義や利点は思い浮かばない。検索ワードで引っかかるようになったのに改名するようなもので、マネタイズに重要な自身の知名度を捨てるようなイメージがある。

 ただ、顔を知られていない人やこれから活動を始める人がアバターを使用することには一定のメリットはあると思う。例えば、声優は声こそ知られているが、顔はあまり知られていない。イメージに合わせたアバターを使用する意味はありそうである。デジタルタトゥーの話にあるように顔出しはリスクも高いため、これから活動を始める人は最初からアバターにした方が安全だろう。

 しかし、アバターにも当然リスクはあってvtuber界隈では事務所を換える際に転生を行うのが常になっているが、アバターのデザインや使用権を事務所側が抑えているためにファンを連れたままの事務所変更が不可能になっている。

 個人勢ならそのリスク自体は回避できるが、デザインそのものを買い上げたり、イラストレーターとの仲を維持しないと新衣装などが作れなかったり、初期費用が膨大だったり、と問題もある。

 結論として、顔出しとアバターで活動に大きな差が出ない程度の時代にはなったが、一長一短である。アバターはリスク回避の機能が高いけれど、コストも高いため最初からそれを選ぶのにはハードルがある。と俺は思う。

容姿ネタは倫理的にまずいという以前に、そもそも不快感しかない

「ブスを無駄にするな」ぼる塾・あんりが吉本養成所で教えられたコト お笑いライター・鈴木旭が語る芸人の“落とし穴”

 この記事は大衆の価値観は不変であるが、見せ方がへたくそなので不快に感じる人が増えた。攻撃的なものが強調されると倫理観に訴えかけてしまい、容姿ネタが笑いのエッセンスにならなくなってしまうのだ、と言いたいのだと思うが。俺が考えるに、そもそも大衆の価値観は不変ではなく、容姿ネタが笑いどころになる人間が減ってきたんだと思うんである。

 他人の事情は知らんけども。少なくとも俺の場合、社畜経験が強く感性に影響を及ぼしている。例えば、松本人志渡辺直美がブタ呼ばわりするシーンなどを見ても、「ああ、上司は部下にいくらひどいことを言っても許されるのだな」と世の無常を感じてしまう。辛い体験がフラッシュバックするので笑って見ていられるわけがないんである。

 テレビ業界の人は容姿ネタ批判を倫理観問題だと思って「お笑いは多様だから差別的な表現があってもいいじゃないか」と釈明したいんだと思うんだが。俺のような人類からすると「テレビで不快な思いをしたくないから、Youtubeで猫動画でも見ます」「見ないんで好きにやってください」ということになるんである。

 商業コンテンツである以上、「昔の人はこれで笑ってたもん」「俺が面白いと思えるお笑いで笑ってくれよ」ではなく、「今の大衆が笑えるポイントはどこなんだろう」と考えて欲しいもんである。

超優秀な開発者なのに評価されないのがザボエラだと思うんである

マンガ『ダイの大冒険』の不人気キャラ、ザボエラさんのセリフが大人になると刺さる「強者とは強い奴のことでは無い!」

 俺もザボエラさんは嫌いではない。確かに、嫌みなじいさんで、非人道的にも思えるから、自分の上司として働きたくはない。だが、開発者としても戦術家としても優秀であり、周囲に蔑まれるいわれのない人物だとも思うんである。

 例えば、超魔生物などは非常に優秀な防具である。地上とは比べ物にならないくらいの戦士がひしめく魔界においても、指折りの剣士だったロン・ベルクの両腕を犠牲にして、やっと打ち倒せるレベルの防具である。地上と魔界では生物の強度が違うらしいのに、地上の生物をベースにして魔界の強度を上回っているのである。これは並大抵の技術ではない。

 しかも、すごいのが技術だということである。ロン・ベルクの武具防具は優秀だが、彼にしか作れない。だが、ザボエラの超魔生物はおそらくザボエラ以外によっても生み出せる。量産することも可能だろうから、魔王軍の戦力強化にこれ以上ないほど役に立つし、世界征服を果たした後に統治する段階でも利用価値が高い。全世界に一定の戦力を配備することができるからである。

 また、一度はアバンに敗れる程度の肉体強度しか持たなかったハドラーを強化し、たとえ一時でもダイと対等に戦えるまでにしたのもザボエラの功績である。もちろんハドラーの精神力も大きいが、これも再現可能な技術なのだから、ダイと同レベルの戦士を量産できるというのはめちゃくちゃにすごい。

 俺が思うに、こういう後方支援の開発職に対して、おそらく否定的な風潮がある魔王軍にむしろ問題がある。自身の肉体を持たないミストバーンは自らの肉体で持って格闘を演じる戦士たちを尊重する傾向にある。一応ミストバーンは軍団長の一人ということになってはいるが、実質はNo2の立ち位置であり、軍団全体にその傾向は伝わっていたろう。

 そういう中では「自分は傷一つ負わずに、相手を一方的に嬲りたい」という超魔生物などの開発は評価されなかったろうし、はっきり言って評価されない仕事ほどむなしいものはない。ポップには「最低だ」と罵られているが、超魔生物のコンセプトは防具の極致であって、傷つくのを厭わないなら裸で戦えばいいのである。その程度の理解力もない軍団で仕事を続けていくのはかなりきつかったろう。

 しかも、ミストバーンは誰もが戦場で果てていくことに感銘を受けてしまって、最終的には開発職であるザボエラに前線行きを命じている。これはアインシュタインに一兵士として戦ってこいと命じるのと同じくらいに馬鹿らしい行為だが、まかり通ってしまうのが魔王軍なのである。

 超優秀な技術者を社内政治に腐心させてしまうのは本来的な技術を評価しなかった結果である。開発職であるザボエラが脳筋になっても大して戦えるわけでもないのだから、どこに乗り換えるかを考えるしかない。実にかわいそうな男だと思うんである。

コミケスタッフは慣れてるからワクチン接種センターで働けとか、あほみたいなことを言う人について

「こういう人の活かし方素敵」ドイツ・ベルリンでは仕事がないクラブやカルチャーイベント関連の人たちがワクチン摂取センターで働いているらしい

 いちいち目くじら立てんでも、と思われるのかしれんが。働きたい人間が働けるのであれば、これは素晴らしいことだと思うんである。しかし、ビッグサイトでやるなら慣れているコミケスタッフで、などと言うのは実に無責任な話である。

 俺も身近にスタッフを知っているが、彼らは立派な職業についており、ありていに言って暇な人間はいないんである。なのに、何故コミケスタッフをしているのかと言えば、コミケが好きで、これを運営することの意義を自らの中に見出しているからである。本業がある中で忙しいのだけど、なんとか時間を捻出してコミケスタッフしているんである。

 慣れているなら、どうせやるなら、などと赤の他人に仕事を差配されるような人間はおらん。無自覚なのかもしれんが、日頃勝手に働いてくれている人間なのだから、言えばやってくれるだろうというような傲慢さを感じ取ってしまう。どのようなスタッフも初めは素人なのであるからして、他人に仕事を斡旋するならまずは自分でやればいいのではないか。

 また、仮にスタッフや演劇関係者の中で仕事に困っており、働き口を探しているとしてもである。だからといって、赤の他人から「ちょうどいいからここで働け」などと言われる筋合いはないんである。日本国民には職業選択の自由憲法で保障されているのであり、これが何故保障されているのかといえば、基本的人権だからである。

 過去にえた、ひにん、などと呼ばれ、皮の加工や死体の埋葬などを専門でやらされ、それ以外の職業にはつかせなかった、などという差別の形態があり。みなが忌避する仕事をやらせるために特定の人間を差別するという歴史があり、こういったことを防ぐために職業選択の自由というものがあるんである。

 俺は別に医療従事者を賤業だと言いたいわけではないが、どう考えても危険な仕事ではある。自ら危険な仕事に志願し、活躍するというのは非常に気高く勇気のある行動だと思うが。だからこそ、俺は誰かにやれと言われてもやりたくない。コロナとの戦いにおいて、一番危険なのは医療従事者である。戦争の最前線で拳銃を撃ち合っているのと同じなんである。

 ワクチン接種センターはこれに準ずる施設であり、当たり前だが、非常に危険な職場である。ワクチンは95%ほどは感染予防の効果を発揮してくれているが、100%ではない。めったに外に出ない一般人に比べれば、95%であろうと危険度は高いのである。

 こうやって○○の職業の人はイベントに慣れているし、どうせ暇しているだろうし、と外野が危険な仕事をやらせようというのは非常に嫌らしく、悪質な言動だと俺は思う。自分は全く無関係だから、安全圏から物が言えるというのがよくよく現れている。何の気なしに言っている人がいるんなら、自身の言動を振り返った方がいい。

人助けは趣味の悪い娯楽である

人助けをするなら「差し伸べた手が不十分だと怒る人がいる」という覚悟をしろって話

 時と場合と状況に寄る、という当たり前の話を置くにしても、中途半端な善行は邪魔なだけである。これは変えようのない事実であろう。例えば、100円のアイスが食いたいのに財布に50円しかない。そういう時に20円くれる人がいたら、中途半端でも大変に嬉しいだろう。これが中途半端OKの手助けである。しかし、これは例外だ。

 例えば、息子が都会で就職して家庭を持って暮らしていて、親が一人になって七十くらいで厳しい生活を送っているとする。息子としては同居してくれる方がよっぱど楽なので嫁を必死で説得して算段を整えたのだけど、母親は頑として受け入れてくれない。こういう冷戦状態があったとする。

 息子としては我慢比べのつもりで親の面倒を見ないようにして、何か不都合を言ってきたら、だから早く同居してくれよ、と。そうしてくれれば、こっちも助かるし、面倒も見るんだから、頑固になっていないで、一緒に暮らしてくれよ、と。そういう家庭である。

 こういう時になまじご近所に親切な方がいて、中途半端に世話を焼いてくれたりすると、これが非常に困るんである。近所に困っている老人がいるから、と電気の取り換えとかをやってくれるわけだが。そうなると、ばあさんは遠くの家族より近くの他人よね、などと言いだして、一向に折れることがない。一人でだって全然平気で暮らしていけるわ、となってしまう。

 ところが、ご近所さんだっていつまでだって親切を焼いてくれるわけでなく、これが一年も二年も続くと、図々しいばあさんだ、息子がいるのに何をやっているんだ、と思ってくるわけだし。ばあさんはばあさんでやってくれるものと思っているから、すっかり頼りにして、ちょっと断られると機嫌を悪くする。

 じゃあ、やっと同居するつもりになってくれて万々歳かと言えば、今度は誘った頃には断ったくせになんで今さら、という話になってくるわけである。近所の方が頼りになるとか、正月やらお年玉やらだけ目当てにしてる、だとか言われてきたものだから、息子はともかく嫁なんかすっかり機嫌を悪くしているから、0からの説得をしなくちゃならなくなり、話はこじれるばかりなんである。

 これはあくまで例だけども、あくまでも例だけども。俺が思うに、他人に手を差し伸べるというのは、ともかく地獄まで一緒に降りていく覚悟のある人間だけがしていい行為なんである。ちょっとした手伝いで感謝を受けるのはスナック菓子を食うのと同じ程度の娯楽なのであって、感謝されないことに憤るというのはむしろ図々しいんである。

 もちろん、それが自己満足であると自覚した上でやるなら、それは趣味なので好きにすればよろしい。